総てを癒すもの

第5章 「式典」(7)

作者:ゆんぞ 
更新:2014-08-05

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反射的にエリザは上半身を反らせる。その動作にやや遅れて揺れる胸の重みで、ようやくエリザは違和感の正体を悟った。
(え? 大きい……?)
衣装で強調されているとはいえ、朝よりも明らかに一回り大きい。王達を掌に乗せた時とも違うから、雷を受けて変化したのだろうか。
いや、それよりも問題は街だ。エリザは慌てて街を上から確認する。

しかし街に事故の痕跡は見あたらず、どこに自分の胸が当たったのかも判らない。
(あ、あの……)
今から訊く内容を考えるだけで、頭に血が上る。唾を飲み込み、勇気を振り絞ってエリザは尋ねた。
(わ、私の胸が当たったと思うんですが、どこに当たったかわかりますか?)
(ああ、ここだここ-!)
返事はすぐに来た。しかも聞き慣れた声だ。
(どっ、どうしてあなたが……)
目を見開き、耳まで赤くしてエリザはしどろもどろに問い詰める。
(そりゃあこっちの質問さ。どうして俺の居るところに胸を押し当てたんだよ?)
しかし問われたイーゼムの方は冷静なものだ。
(押し当ててなんかいませんっ!)
反駁するエリザの目は潤んでいる。その様子を見て、さすがにこれ以上言うのはまずいと思ったのだろう。イーゼムは即座に話を切り替える。
(とりあえず、この辺りはみんな無事だよ。建物が支えてくれたようだ)
(えっ……あの……)
一方のエリザは話の転換に付いていけないようで、視線はさまよい 何度も瞬きしている。
(つまり、無事、なんですね?)
(そうだよ)
苦笑しながら答えると、エリザの表情が一気に緩む。
(良かったぁ)
安堵の息と共に一言漏らす。本来、一番聞きたかったのはそれだったのだ。
(他の方は如何ですか? 怪我とか、ありませんか?)
さらにエリザは、街の他の場所に視線を配りつつ尋ねる。
(大丈夫だよ)
(それより、向こうの連中が羨ましいぜ)
(そうですね。こちらにもお願いしたい)
(あ、いいねそれ)
最初は苦笑混じりの返事だったが、それは徐々に要望へと変化する。
(や、やって欲しいって、その、まさか……)
(もちろん、そのまさかです)
(胸でぎゅっ、とね)
(いいねえ)
(いいぜ。この街で受け止めてやるよ!)
彼女の狼狽は隠しようもないが、住民は容赦しない。
(いや、その……)
エリザは救いを求めて視線をイーゼムに合わせるが、それに気付いた彼は事も無げに答える。
(怖がってる奴らを抱きしめたりするだろ。それと同じだと思えば良いじゃないか)
その説明に対し、周囲からは賛同の拍手まで沸き起こった。


その反応に、エリザの中で何かが切れた。その顔はみるみるうちに紅潮する。
(いい加減にしないと、怒りますよ!)
潤んだ眼で街を睨み、心の声を叩きつける。
(そんなこと出来るわけないでしょう。誰ですか、そんな破廉恥なことを言うのは?)
腰に手を当てて身を屈め、きつい視線を街のあちこちに配る。さすがに肉声や手を出すことはないが、配慮もここまでだ。

街からの反応は無いが、それも当然である。数千倍の大きさによる眼力は、目が合うだけでたじろくほどだ。それが怒気をはらみ容赦なく畳みかけたので、さっきまで調子に乗っていた連中は軒並み震え上がってしまったようだ。
(ちょっと、言い過ぎました)
瞬き二つ三つの間を置いて、エリザはあっさり折れる。上を向いて溜息をつき、幾分柔らかい視線で街に向き直る。
(いや、こっちも言い過ぎた。すまん)
(良いんですよ。あなたが言い出したわけじゃないんですから)
いち早く反応したイーゼムに、エリザは微笑みかける。
(あの、失礼な申し出、本当に申し訳ありません)
それを見てか、画家の一人がおずおずと切り出す。
(仕方ありませんね)
頭を振って許すと、画家は釈明を始める。曰く、小さな街なら丸ごと飲み込めそうな胸が降臨し地面を包みこむ光景は情欲的というよりも幻想的といった方が正しく、神話の再現にも匹敵する壮大な光景なのだという。
(そうなんですか……)
やや呆れ気味の表情のまま、エリザは右手を腰から離す。

中央広場の上空を分断する影がいきなり現れ、広場の一角を闇に閉ざす。更に空からは何かの擦れる音が轟く。少し離れた場所からは、広場を丸ごと飲み込むほどの指先が降臨して輪を描くように周囲を蹂躙するのが見える。両者とも突然の事態に目を奪われ、驚きの声さえ出せない。
(これでは足りませんか? 十分に壮大だと思いますけど)
少し悪戯っぽいものの、普段通りの優しい声が市民の心に響く。

エリザにとっては人差し指で軽く撫でるだけのことが、街の人達には天地を揺るがす事象に見えているだろう。強化魔法を掛けていなければ指の下は何もかも押し潰されてしまうはずだが、指の下から恐怖心は感じられない。ただただ驚き、理解するにつれて感嘆に変わっていくのを彼女は敏感に感じ取っていた。

怪我人も多少いるものの、反射的に身構えたことで肘を当てたり、尻餅を付いたりといった軽い被害だ。指を下ろしていることで怪我人との距離が近いため、治療はたやすい。
(あ、ありがとう)
(どういたしまして)
感謝の声に笑って応える。真っ暗な天井に感謝していると思うと、なんとも愛おしい。

治療が終わったところで指を上げ、街の上で横に振りながら諭す。
(指だけでこうなってしまうんです。胸なんて下ろしたら、皆さん驚いて死んでしまいますよ)
口調こそ軽いが、指一本の威力を見せつけた後だけに内容は重い。しかしそれでも住民たちは心の準備ができれば問題ない、今ので慣れたから大丈夫といった銘々の意見で反論する。
(もう、駄目といったら駄目です)
エリザは口を尖らせて突っぱねる。
(じゃがのう、エリザよ)
(今度は何ですか?)
ローンハイムの呼びかけに、エリザはやや強い口調で応える。この老師は変なところで好奇心が強いから油断できない。
(街を抱けば、住民の存在をより強く感じ取られるぞ)

身構えていたエリザにとって、老師の提案は全くの想定外だった。彼女は目を大きく開いたまま何度も激しく瞬きする。
(そ、それは……)
返す言葉に詰まってしまう。街を胸で抱きしめて欲しいなんて、普通に考えれば応じられるわけがない。指で脅したのも、彼らの見え隠れする欲に嫌気がさしたからだ。しかし……
(皆さんの存在をもっと身近に感じたいというのも、私の偽らざる心境です)
エリザは素直に心境を吐露する。今の彼女から見た人々は一厘(〇・三ミリメートル)強の点でしかない。もちろん、どれだけ小さくても彼らを尊重する意志に変わりはないし、心話が通じているなら尚更だ。

しかし彼等が自分を幻だと認識していたように、エリザも住民の存在を直接的には実感できていない。心話が通じることで、眼下の動く点を『ひと』だと思えているに過ぎない。いま聞こえている心話が もし幻聴だったとしたら、今までの会話から住民の存在までもが全て幻となってしまう。残るのはどこまでも小さく、単調で、耐え難いほど孤独な世界……


気付けば要望の声は無く、代わりに急に冷えて寒いとか、息苦しくて頭が痛いといった訴えが街のあちこちから出ている。
(あっ、ごめんなさい)
考え事をしていたため気づくのが遅れたようだ。慌てて街の前で手を組み、街の周りが暖かくなるよう祈りを捧げる。そして更に彼女は街の人々の快癒を念じる。
(これで如何ですか?)
尋ねてみると、彼らの頭痛は収まったようだ。しかしどこかにぶつけたわけでも無いようだし、何より一斉に発生というのが解せない。
(うーん。大きな問題でなければ、良いのですが……)
エリザが言うが早いか、頭痛を訴える声が再び挙がり始める。先と同じ人の声も聞こえるから、再発していると考えるべきだろう。
(この症状を納めるためには、街ごと抱きしめるしかないぞ)
(もう。どうしてそうなるんですか)
便乗する師匠に反論しつつ、エリザは自分の胸元を見下ろす。両胸の張り出しは前より大きくなっているものの、街を覆うにはまだ足りない。もうふた回りほど大きくなければ……

我に返ったときにはもう遅かった。
眼下の双丘は掌が余るほどに大きくなり、街の半分以上を彼女の視界から遮っている。その街も、心持ち小さくなっているような気がする。
(これはすごい)
(大きいなあ)
(ねーちゃん、やる気だなぁ)
街からは囃し立てる声が届き、エリザは自分の胸を抱きしめて体を横に捻る。
(いや、あの、これは……違うんです)
消え入るような声に堅く閉じた目、紅潮した顔。初々しい仕草に、街からは口笛や拍手まで聞こえてくる。

どうしてこう、退路を断つ方向にばかり事が進むのか。もしかして、心の底では街を抱きしめたいと思っているのだろうか。
思って、いるのかもしれない。
エリザは沸き上がる問いを冷静に捌いていた。

小さな住民の実在に疑いを持った時点で、既に答えは出ていたのだろう。一度沸いた疑いは会話だけで晴らしようもなく、彼らを直接抱きしめて存在を確かめるしかなさそうだ。情欲に応じるのは癪だが、他に手段が思いつかない……

深呼吸しながら覚悟を決め、街に向き直って腕を解く。街から挙がるどよめきは、解放された胸の大きさと揺れを見ての反応だろう。単純なものだ。エリザは自然と出る以上に呆れた表情をつくり、両手を腰に置いて溜息までつく。素直に応じる気は無いし、そう思われるのは絶対に嫌だ。
(今日は特別ですよ。明日言ったら怒りますからね)
強い口調で伝えるものの、エリザは諦観していた。この嘆願は後で絶対に出てくるだろうし、自分もまた文句を言いながら応じるだろう。


臍の少し上に街を据えて覆い被さるように身を傾けると、胸の重みで服の布地が悲鳴を上げる。気を抜けば前に倒れかねない重さに対し、エリザは背筋と爪先に力を入れて耐える。しかし守っているはずの市民は相変わらずの様子で、いっそ のし掛かってしまおうかとさえ思ってしまう。
(では行きますよ)
邪念を振り切るように短く伝え、エリザはゆっくりと身を屈める。楕円形の街は左右にも広場を持ち、そこからの円を二つ繋げると街をほぼ網羅できそうなので、両胸が広場の上に来るよう照準を定める。街からの声は聞こえないが、固唾を飲んで降臨を今か今かと待ち望んでいるのが何となく解ってしまう。それより気になるのは、何人か屋根や塔に登っていることだ。自分の影になってあまり見えないが、なぜか彼女はそれを確信していた。
(屋根に登っている人は下りてください。潰れてしまいますよ)
やや強めの口調で注意すると、彼らは返事してすぐに下りる。素直な反応にエリザは安堵しつつも、内心では彼らと触れ合えないことを少しだけ残念に思う。
全員が屋根から下りたことを確認してエリザは小さく頷き、最後の半寸を詰める。胸が街に触れると、屋根の尖った感触が微かに伝わる。体重を少しずつ街に掛けていくと、自重で潰れた胸が徐々に広がっていく。屋根や道や広場が次々と飲み込まれ消えゆく様子は、彼等の目にどう映るのだろう。津波のように見えるのだろうか。


雲の浮力は思ったより大きく、身を預けても街が沈む気配はない。体重を掛けながら両腕で軽く抱き寄せるだけで、彼女の胸は街を丸ごと覆いつくした。建物が潰れた感触はなく、代わりに大小様々な建物の凹凸を服越しに感じる。逆に自分の鼓動も街全体に伝わっているようだ。
(胸のつかえが降りた気分ですよ。皆さんは如何ですか?)
エリザは冗談交じりに尋ねてみる。
(真っ暗だ)
(なんも見えねぇぞ)
(怖いよぅ)
鼓動や温もりへの反応が来るだろうと思っていたが、これは予想外だ。
(あらあら……)
少々面食らうものの、考えてみれば当然の反応である。自分の胸が上空を塞いでいるのだから、光は門の隙間からしか入らない。
(それでは、光を灯しますね)
そう伝えて、エリザは自分のドレスを光らせる。強すぎると彼らの目を潰すおそれがあるため、敢えて魔力を込めずに念じる。日光の下にいるエリザに自分の明るさは解らないが、素直な反応から大体の感じは掴める。
(これくらいで如何でしょうか?)
念のために尋ねてみると、街からの声は一層大きくなる。
(いやあ、これはすごい)
(これが刺繍なの?)
(大きいなあ)

相変わらず尋ねたことには応えてくれないが、素直な驚きぶりが嬉しくて笑ってしまう。
(ふふっ、大きいでしょう?)
町中を見ることは出来ないし、皆が喋っているから一人一人の声を聞き分けるのも困難だ。しかし彼らの全般的な様子や、皆と違うことをしている者の動向はわかる。例えば……
(小刻みな地震は、おそらく私の鼓動です)
答えてあげると、納得する声がいくつか上がる。
(もう、そんなに大きいのですか?)
少しだけ攻めるような口調で問うと、慌てて謝る声が返ってくる。
(梯子なんて取り出して、どうなさるおつもりですか?)
悪戯っぽく尋ねてみると、あわあわと言葉にならない反応が幾つか出る。
(触りたいんでしょう。仕方のない人ですね)
呆れたように言うが、意図が読めるのは有り難いことだ。
(じゃあ、もっと低くしましょうか)
そう言ってエリザは更に街を強く抱き締める。膨大な重さに加えて力まで掛けたら街など跡形もなくなりそうだが、強化魔法のおかげで木の一本さえ折れる気配はない。

ほどなく無謀な連中がドレスにとりつき、表面の糸の隙間を広げて生地内に入り始める。しかし生地の張力に阻まれ、糸一本分より奥へは入れないようだ。これまでにも増して動向や心理まではっきりと掴めることに加え、もがいている様子がおかしくてエリザはくすくすと笑うが、彼らはその動きにさえ翻弄されて悲鳴を上げる。
(ごめんなさいね。それ以上は御招待できないんです)
謝る声は余裕に満ち、そしてなんとも楽しそうだ。

まとわりついた連中が服の表面で落ち着いた頃を見計らってから、エリザは以前から持っていた疑問を今一度投げ掛けてみる。
(ところで、街を抱き締めた私って、どのように見えましたか?)
先程も似た疑問を投げたような気もするが、何度聞いても想像しづらいのだ。しかも、その疑問を抱くのが当の自分自身だけというのが何とももどかしい。
(そうだな……)
思いだしながら、彼らは思い思いの印象を語り始める。


エリザの予想通り、住民の視線は彼女の胸に釘付けになっていた。街の遙か上に鎮座していた双丘は屈むことで一気に街の直上まで落ちる。街の中心部では淡い色のドレスが雨雲よりも低く垂れ込め、周囲を薄暗く閉ざしている。外縁部からは、釣鐘型に伸びた山脈が街を押し潰さんばかりに迫っているのが見える。

ドレスの表面にある文様が激しく動いているのは、彼女のちょっとした動きに翻弄されているのか、それとも置き場所に迷っているのか。体温を含んだ暖かい風が吹き抜け、生地の軋む音が雷鳴のような音量で轟く。
(屋根に登っている人は下りてください。潰れてしまいますよ)
優しいが凛とした声が心に響き、家や見張り塔の屋根に登っていた何人かは慌てて屋内に入る。言われて初めて気づいた者も含め、誰も彼女の言葉には逆らわなかった。

素直な反応にエリザは満足したらしく、軽く頷いて更に半身を下ろし始める。手を伸ばせば届く高さだと思っていた中心部の住民たちだったが、天蓋は彼らの予想を超えてどこまでも落ちてくる。最初は家ぐらいの大きさと思っていた紋様が区画ほどになり、更にそれをも凌駕する。指を下ろした場所以外の住民は初めて彼女の大きさを実感する羽目になり、どこまでも大きくなる体躯を呆然と見上げるしかない。

慎重な動作に加えて元が柔らいため、着地の振動と音は比較的穏やかなものだった。しかし重みを受けて膨らんだ胸は、馬の速駆を遙かに超える速度で市壁に迫る。それに伴って逃げ道を求める空気が嵐のように辻々を駆け巡ったが、吹き飛ばされた人々は怪我をする前に快癒していた。

厚い雲が街を飲み込むような光景に周辺部の住民は一歩も動けず、薄闇に包まれて初めて自分が胸の下に入ったことを知った。気づいたときには南門を除いた街の大半は真っ暗だ。南門からは、天から聳える白い二子山が互いの山肌を押し合う光景が一瞬だけ見えた後、やはり闇に閉ざされてしまった。

視界が閉ざされて、やっと住民はそれ以外の変化にも気づく。先程までの寒さから一転して暖かくなり、湿気と僅かな塩気を含んだ香水の匂いが辺りを優しく包んでいる。天の奥底から周期的に鳴り響くのは鼓動だろうか、微かな振動まで伴っている。それとは別に、風の唸る音とゆっくりした上下の揺れもある。こっちは呼吸だろう。風景のみならず気候まで、しいては五感のすべてが巨大な治癒術師の支配する世界となっていた。

暗さを訴える声はすぐに届いたようで、空はすぐに明るくなった。そこで住民はようやく、治癒術師の本当の大きさを間近に見ることとなった。生地の織糸だけでも縄のような太さがあり、模様やフリルの一枚一枚でさえ広場を凌駕している。淡い色調で輝くドレス生地は晴天のようであり、尖塔を飲み込む様は雲のようでもあり、屋根から屋根へと渡された天幕にも見える。広場ではより低く垂れ込めており、手を伸ばせば届く高さで上下に動いている。


深く話を聞き入るうちに声は遠くなり、代わりに彼らの思い描く景色がぼんやりと瞼の裏に写る。それは神話の天変地異を具現したような光景で、とても自分のちょっとした行動が引き起こしたものとは思えない。
(うーん。そこまで凄かったんですね)
感慨深そうにエリザは唸る。ちょっと抱きしめただけで、ここまで感銘を受けている。そう思うと小さな彼らがどこまでも愛しくなり、沸き上がるような震えを感じた彼女は街を擦るように上半身を動かしてしまう。

服越しの建物の凹凸から街の存在をより強く感じられるが、すぐにあちこちから声が上がり、エリザは我に返る。そして自分の僅かな動作が及ぼす影響に気づいた。
(だ、大丈夫ですか?!)
慌てて尋ねる。
(え……あ、うん)
(だ、大丈夫……みたい)
(治っちゃったよ)
(ほんとあっという間だね)
返事に苦痛はなく、代わりに幾らかの戸惑いの色を含んでいる。雲の流れを早めたように天の模様が一斉に動き、建物に擦れて地響きのような轟音をたてる様は中々の見物であったらしい。壁にぶつかったり転んだりした者も何人か居たようだが、痛いとか何とか言う前に治ってしまったので、怪我をしたという実感さえ無いようだ。服に取りついていた連中も全員落ちたものの、やはり即座に快癒している。
(良かった)
安堵の声を漏らし、エリザは治癒のからくりを説明する。これは誰もが身に纏う僅かな魔力によるもので、本来なら効果が出るほどの力はない。
(ですが何と言ってもほら、今はこの大きさですからね)
その声は嬉しそうで、また誇らしげでもある。

街からの声が収まってきた頃合いを見て、エリザはいつからか閉ざしていた瞼を上げた。軽く身を傾け視線を下げているため、目に入るのは緑や灰などの色が織り成す絨毯のような大地で、自分が大きいのではなく周囲が小さいかのような錯覚を覚える。草原や森を縫う灰色の線は街道で、赤茶色の点が幾つか集まっているのは村落か。視線をもう少し遠方に投じれば、やや大きな灰茶色の円が見える。これは隣街のバラムだろう。確かあそこまでは三里ほどあったはずだが、今の自分なら数歩で辿り着けそうだ。

ということは、自分の姿も街から見えている……?
今更ながら気づいたエリザは慌てて身を起こしかけ、そこで街への影響に気づいてすぐに下ろし、街を抱きしめ直す。しかし胸の重みに加えて勢いも付いていたため、街は彼女の尺度で五分ほど沈みこんだ。
(ああ……ご、ごめんなさい。またやってしまいました……)
短く謝ってからエリザは町の人々の快癒を祈り、彼らの様子に心を傾ける。今度は上下の揺れに翻弄されたようで、外に出ていた者は彼女の胸に一旦受け止められてから地面に激しく衝突していた。しかし先と同様、痛みを感じる前に完治している。
(ごめんなさい。あの、ちょっと、慌ててしまったんです。遠くの街から私の、その、今の姿が見えていると思うと、つい……)
少し間をおいて釈明するが、その口調はどうにもたどたどしい。
(ああ、確かに、何やってるんだろうって思うよね)
(街に胸押し付けてるんだからねえ)
(しかも擦り付けてるし)
(俺たちも変な目で見られそうだな)
(やれやれだ)
翻って住民の声。元はといえば彼ら自身が望んだことなのに、勝手なものである。

身勝手な住民はさておき、実際のところ遠方から自分はどう見えているのだろう。彼らの声を聞くことはできないだろうか。色々と初めて尽くしの状況もあり、一度沸いた疑問は今すぐに確かめたくなる。
(ではちょっと、身を起こしますね)
一言伝えてエリザは下支えする腕を解き、今度はゆっくり上体を起こす。

再び陽光を浴びる街は無傷だったが、形状のみ小皿を二つ並べたように歪んでいた。自然にも不自然にも見える不思議な地形にしばし見とれるも、これが自分の胸で作った凹みと思うと、つい赤面してしまう。
(と……とりあえず、均しますね)
エリザは慌てて宣言し、左掌で下支えながら右の四指で慎重に周辺部を押し下げていく。「それも胸でやってくれよ」という不埒な輩も居たが、少し強めに押せば大人しくなった。


凹凸がほぼ無くなったところでエリザは街を脇の雲に乗せてゆっくりと遠ざけ、南方を向いて祈るように手を合わせる。
(改めまして、こんにちは。ちょっと大きくなりすぎてしまいましたが、治癒術師のエリザです)
簡単に自己紹介。小さな町や村落を前に自然と笑みがこぼれる。
(折角ですので、皆さんの声を聞かせて頂けませんか?)
心話は届くだろうが、彼らの声は聞こえるのだろうか。
耳をすませつつ、エリザは足元の集落から徐々に遠くの町へ、またその逆方向に意識を往復させる。

やはりというか、近くの集落からは少数ながらはっきりと声が届き、遠方の街からは微かな声が多数聞こえてくる。

最も近いのはスカートの裾近く、右の方にある別荘地だった。森の中にポツンと切り開かれた広場があり、その中央には今朝自分が支度した別荘が配置されている。今となっては麦粒程度の大きさでしかない別荘に、何人かの衛兵と執事が留守を預かっている。

数刻前の出来事を思いだしたエリザは、軽く身を傾けて声を掛ける。
(こんにちは)
(おう。大丈夫か?)
(こんにちは。いやあ、素晴らしい)
返ってくる声からは、兵長の緊張や着付師の感嘆が手に取るようにわかる。
(そちらは お変わりありませんか?)
(ああ、襲撃は無いな。クルスも無事だったよ)
先般の魔法戦士は御者のクルスを緊縛して成り代わったものの、手荒な真似はしていないようだった。しかし野放しには出来ないため、明日にでも討伐を奏上する予定だ。そう兵長は語気を強めて言い切る。
(そうですね……)
当事者であるエリザも同意だった。今の彼女が操られでもしたら、どれだけの惨事になるか想像も出来ない。

爪先を下ろすだけで街が一つ消え、足を払えば王都でさえ灰燼と帰す。踏みしめれば山をも崩し、横たわれば領土を丸ごと覆い尽くす。山深い渓谷も絶海の孤島も身を隠す場所たりえず、逃げ場所はどこにもない……

考えるほどに事態は深刻に思え、思わずエリザは身震いしてしまう。
(私の方でも、ちょっと探してみますね)
エリザは足元の兵長に答えてから王都や他の町村に向き直る。
(えっと、ですね……)
多少の逡巡の後、エリザは周囲に対して説明した。
(人探しの依頼がありましたので、少しお時間を頂きます)
真相を説明するのは長くなる上に混乱を招くとの判断である。

エリザはドレスの裾に注意しながらゆっくりとしゃがみ、まずは先の別荘から延びる街道を目で追ってみるものの、人影は全く見あたらない。周りの集落を見渡して声を掛けるも、留守を預かる村人からの返答は『来訪者そのものが皆無』という簡単なものばかりだ。

脅されていたり、成り代わっている可能性も考えられるが、疑えば要らぬ恐怖を与えるし、何より留守番のため祭典に出られない人達を疑うのは どうにも気が引ける。

折衷案として、彼等にも祭に参加して貰うことにした。一言断ってからエリザは家の集まる区域を隆起させ、小さな茸ほどの集落を一つずつ左手に乗せていく。
(安心して下さいね。決して危害は加えませんから)
優しい声で諭し、微笑み掛ける。やや落ち着きを見せたところでエリザはゆっくりと立ち上がる。
(良い景色でしょう? 島一番の山より高いと思いますよ)
摘み上げられた時には緊張していた彼等も、巨大なエリザに見守られ むしろ安全であることを理解したようで、前後ともに雄大な景色を楽しんでいるようだ。彼等の余裕ぶりから判断する限り、魔法戦士は居なさそうだ。
(そうえいば首都の人達ですけどね、こんなことまで要望したんですよ)
はにかみ混じりにそう言って、エリザは集落の乗る左掌をゆっくり自分の左胸に引き寄せ、丘よりも大きなその膨らみをそっと乗せる。
(酷いと思いませんか?)
(うお、すげえ!)
(あったけぇぇ)
(酷いな。あいつら、羨ましすぎるだろ)
喜ぶ声も素直というより欲望に忠実であり、彼女の予想は確信に変わった。

疑いも晴れた上に楽しんで貰えたのは良いとして、肝心の魔法戦士が村に居ないとすれば、やはり身を隠しやすい森なのだろうか。集落を戻したエリザは周囲に深緑の絨毯のように広がる森を見渡してため息をつく。

地面は木々に覆い隠され、中を探すのはいかにも骨が折れそうだ。木々を撫で払えば下まで見通せるかと思ったが、今の彼女にとって森の木々は余りにも小さく脆い。手を翳すだけで異変を感じた動物達が激しい鳴き声を響かせる。


決断を渋り思案するエリザの心に、聞き覚えのある声が不意に届く。
(こっちだ)
声のする右方を見ると、彼女を迂回するように陸地が湾曲し、後方の海へと突き出ている。湾を挟んで王都の反対側に岬が伸びる形だ。

海から切り立つ岬の地表はなだらかな草原で、エリザはそこに小さな人影を認めることが出来た。
(まさか……)
エリザは体を右に向けてスカートを引き、足元を凝視する。小さすぎる上に角度の関係で人相は判らないものの、地面に描かれた幾何学的な模様や、何よりこんな辺鄙な場所に居るという事実だけで疑うには十分だ。
(ようやく気づいたか)
以前と異なる口調ながら、低い声には聞き覚えがある。そう、これは……
(何故、こんなところに?)
何よりも先にエリザから発せられたのは、素直な疑問だった。
(何故か? それは、貴女をよく見るためさ)
一方の魔法戦士は、普段の仰々しい口調に戻っている。
(ここから見れば分かる。偉大な女神と、矮小な街の対比は実に見事だ)
城壁はもはや意味を成さず、いかに堅牢な城を築けども指一本であっさり突き崩せる。足でも踏み入れようものなら街を一気に消し去ることさえ可能であり、もはやエリザを止められる存在など皆無。なれば戸惑うことなく、超越者としての絶対的な態度を示すべきではないのか?

内容を咀嚼するだけの間を与えつつ、反論に至る前に畳みかける魔法戦士。計算高さを感じさせない念の入れようだが、エリザは全く心を動かされていなかった。彼女自身が身構えていたことに加え、今の大きさと距離では声が弱すぎる。聞き取ってみれば内容は前回の焼き回しで、徒に修飾詩を重ねた文言も自分に酔っている印象しか与えない。

完全に冷め切ったエリザは集中するのも億劫になり、自然と溜息が漏れる。
(なっ?!)
魔法戦士からは憤慨とも驚嘆とも取れる声が届く。本気で催眠術に掛けるつもりだったのだろう。しかし、その自信はどこから出てくるのか。
(御高説、痛み入ります)
エリザは低い声色で一言一言区切るように伝えると、左足を浮かせてゆっくり前に出す。
(おお?)
彼女の動きに応じ、足元からは一様に感嘆の声が上がる。爪先だけで町を丸ごと踏みつぶせると計算できても、その大きさを実感できるか否かは別の話だ。彼等にとっての大きさの感覚は靴が近づくにつれて何度も上書きされ、目の前に下りた頃には言葉を失っていた。

司祭達が陣取る場所は、海面から十丈近く切り立つ崖の上にある。ゆえに王都での式典や超巨大化したエリザの様子も完全に把握できていたのだが、いまは巨人の靴の底敷がほぼ彼等の目線まで切り立っている。それより上に聳える靴本体は一面の白い曲面としか見えず、全体の大きさを推し量ることすら出来ない。
(なんと……)
(これは)
司祭達は呆然と眺めているのだろう。エリザが心の内を探っても言葉の断片らしき物しか聞こえない。

次にエリザは踵を着けたまま爪先を浮かせ、更に前へと送り出す。街より広いと評した革の靴底が司祭達の上空を占め、初夏の日差しが遮られる。
(これまた)
(ううむ)
やはり反応は限定的だ。足元の彼等にとっては、空が丸ごと靴底に変わったように見えるのだろうか。想像しながらエリザは、殊更ゆっくりと爪先を下ろしてみる。横からの光も減り、彼等の周囲は更に暗くなったようだ。靴底の縫い目も見えず、夜のような暗さになっているらしい。

なおも爪先を慎重に下ろしていくと、ようやく司祭達は自分達が置かれている状況に気づいた。
(まさか……)
(踏みつぶす気か?)
明らかに動揺した声。エリザは答える代わりに爪先を止め、靴底と闇に加えて無言の圧力まで掛ける。内心では相手が気づいてくれたことに安堵していたのだが、司祭達からは靴底しか見えていない。

二呼吸ほど待ってエリザは一気に爪先を前に出し、ヒールと爪先の間に岬が来るように下ろす。岬の幅は半寸にも満たないので、ハイヒールのアーチ部分に跨がせるのも容易い。足元の司祭達は圧力と闇が去ったと思う間もなく、前方に聳える柱と、そこから真上を通って後方にまで繋がる雄大な曲面を目の当たりにする。

足を置いて落ち着けたので、エリザは改めて司祭達の心境を探ってみる。巨躯が次々と織りなす大景観に圧倒され、現状を把握するだけで精一杯という感じだ。たとえばいま見ている景色が靴底のアーチであり、靴にすっぽり覆われていることを理解するまでに幾許かの時間を要している。

エリザは彼等が現状を掴むまで待った後に体重を左足に掛け、左右に重心を動かす。革が立てる小さな音も、足元には地獄の底から響くような轟音として届いているようだ。対策を考える余裕は見られず、もはや最初の目的を覚えているかさえ疑わしい。

仕上げにエリザは爪先を再び浮かせて左後方に引き、人が居ないことを確認してから岬に踏み下ろす。今の大きさとなって初めて踏む大地は想像以上に柔らかく、綿を踏むように抵抗が無い。上陸は出来るだけ避けたほうが良さそうだ。数拍おいて左足を戻すと、岬は分断されて新しい島になっている。

その司祭達から見れば白い生きた山脈が岬を容赦なく押し潰し、それでいて何事でもないかのように軽々と退いていく。元の大地は綺麗に削り取られ、抉った痕跡の崖が残るのみ。祭壇は島として分離し、向こう岸まで五~六町ほどあるので脱出不可能だ。
いや、違う。この巨人に見つかった時点で、もはや逃げ場など無かったのだ……

絶望に打ちひしがれる司祭達を無表情で見下ろしつつ、エリザは次の手を考える。操心術を防ぐためには、まず自身の恐れや不安を振り払う必要がある。その上で相手にこちらの優位を認めさせれば良く、絶対的かつ深層に訴えるほど効果は高い。術に陥ちていることでエリザは不安を、魔法戦士は自信を抱いていた。この不利を精算し、手を出せなくなるまで徹底的に対処せねばならない。

意を決したエリザはスカートを手で押さえつつしゃがみ、祭壇の周囲をに右手を伸ばす。このときも王都で見せた慎重さは敢えて出さず、早さを少し控える程度だ。当然ながら司祭達はドレスが巻き起こす風に翻弄され、吹き飛ばされる者さえ何人か居る。

それも見越してエリザは素早く動き、右人差し指で彼等を受け止めてから目前に寄せる。
(大丈夫ですか?)
(あ、ああ……)
怪我がない訳ではなかったが、いつの間にか癒えているので生返事しか出せない。怒るどころか、暫くぶりに声を聞いて安堵さえしている。
(良かった)
エリザは微笑みかけ、右手首を膝の上に置く。そして今度は左手を伸ばし、親指と人差し指で祭壇の周囲を丸ごと摘まみ上げる。
(こちらも、お怪我はありませんね?)
持ち上げた地面に対しても、エリザはあくまで治癒術師として対応する。こちらも擦傷程度であり、しかも完治済みだ。肯定の返事しか出せない点も共通している。

エリザは右人差し指を地面に添えて傾け、合流させたまま土塊を三指の腹で囲む。祭壇は高さ十丈余りの白壁に囲まれ、三角形の空は優しい微笑に占められている。
(改めまして、こんにちは)
そのような圧倒的な状況で、エリザは語り始めた。
(先の雷も、貴方たちの仕業ですね?)
少し前から抱いていた疑問をぶつける。王都が見える僻地に、しかもこの日に祭壇を組む理由は他に見あたらない。
(おおかた、街の皆さんが私を恐れれば、と思ったのでしょう)
多少は我に返っているのか、何やら弁明する声が聞こえる。よくよく傾聴すれば他にも聞き覚えのある声色があり、初めてエリザはウニレフの一団が居ることに気づいた。孤立したところに付け込む心算かと思いきや、純粋な興味もあったようだ。
(貴方達でしたか)
思わず漏れたため息が彼女の摘まむ地面に襲いかかり、司祭達は家ごと吹き飛ばせそうな暴風に激しく翻弄される。
(あら? あ、まあ大丈夫ですね)
そんな司祭達の上から、エリザは軽い調子で呟く。自分の手の中にいる限り、彼等が怪我をすることはない。

矢継早にエリザは本題を切り出す。
(単刀直入に言います。私の心を操らないで頂けますか?)
余りにも提案が核心だったのか、迷っているのか、二呼吸ほど待っても返事は無い。

そこでエリザは土塊を傾けて左手側に人を送り、右の人差し指を軽く動かして二~三度擦ってみる。地面の一割ほどが削れ、かぼそい悲鳴が上がる。
(ふふふ、大丈夫ですよ)
いとも簡単に大地を削り取る力と、その力に起因する恐怖を溶かして余りある慈愛に満ちた微笑。
(潰さないように注意していますから、ね?)
ウィンクまでして見せる。

敵うわけがない。
爪先の威力に加え、間近で見るスケールの大きさ。膨大な力や巨躯のみならず、体躯相応の自信と慈悲までも備えている。もはや女神にも匹敵する彼女に何か使役させるという考え自体が根本的に間違っているのだ……
そんな思いが彼等の心の奥底、魂にまで刻み込まれていた。

沈黙する司祭達に、エリザはなおも畳みかける。
(お返事を、頂けていないようですが?)
一言一句、ゆっくりと伝わる声。にも関わらず上空に佇む顔は変わらず柔らかい微笑を湛えている。
そこに居る全員が、無意識のまま頷いていた。

状況を知ってか知らずか、不意にエリザの眉尻が下がる。
(申し訳ありません。声として伝えて頂けませんか?)
はっと気づいた一人がすぐに声を上げると程なく他者も倣い、大声で二度と操心術を掛けない旨を叫ぶ。絶叫による宣誓は繰り返され、その様子は使命感さえ抱いているようだ。

今後一度たりとも失敗は許されない事情もあり、エリザは全員が誓っていると確認できるまでじっくり聞き入る。
(もう大丈夫ですよ)
そう言って止めた頃には、二十回近く繰り返されていた。もう喉は枯れ果て、全速力で走ったかのように肩で息をしている。

(お疲れさまでした。ありがとうございます)
そう言ってエリザは土塊から左親指を放し、両人差指で挟んだ大地の一面を左胸にそっと当てる。更に魔法で強化し、柔肉にめり込ませる。

文字通り山のような胸に抱かれ、優しい鼓動が大地を揺さぶる。喉の痛みもいつの間にか消えており、穏やかな温もりと服に染みた香りに思考を奪われてゆく。
(約束は、守って下さいね)
エリザの心声も、遠くから響いていた。



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