総てを癒すもの

第5章 「式典」(4)

作者:ゆんぞ 
更新:2008-02-02

[前に戻る] [次を読む] [トップに戻る]

式典の参加者を掌と前腕に乗せ、エリザは王都への道を進む。

本来は馬車で王都まで移動し、そこで巨大化する手筈だった。しかし時間が押している上に、今のエリザはどう身を折っても馬車に入らない。
「ちょっと、驚きに欠けるのよねぇ……」
難色を示したのはハンナだった。曰く、通用門の半分もない五尺(一五〇センチ)余りの少女が市壁さえ踝の下に収める八十丈(二四〇メートル)まで一気に大きくなるから面白いのだと。

そこで可能な限り小さくなってみたが、そうすると今度は掌に全員を乗せることができない。
「折角の大きさですから、一人か二人 胸にでも挟んで行きましょうよ」
ハンナの提案は当然ながら却下。結局、腕の上に乗せることで対応した。


王都の西門までは馬車で半刻の道程だが、エリザはその半分以下の時間で進む。城壁の上にはグランゼルが立っており、何やら両腕を振っている。何か言いたいのだろうと思ったエリザは右掌上の人々を左前腕に移し、聴力を彼に集中させる。そして耳に右手を当てて頷き、聞こえていることを示す。
「どうしたんだ。手筈と違うから皆驚いているぞ」
届いたグランゼルの声は、幾らかの緊迫を含んでいる。既に彼女の姿が城や市壁、見張塔からは見えているらしい。
「そ、そうなんですか?」
こめかみの辺りを掻きながら応えるエリザ。少し大きくなっただけという感覚で居たのだが、重要な式典だけに何かあったと思われているらしい。いや実際に何かあったのだが、いま本当のことを言うと混乱を招くのは明らかだ。
(うーん、何と言いましょうか?)
左腕の面々に当たり障りの無さそうな理由を問う。そして幾つか返ってくる案の中で最も妥当と思われる解を選び、照れ笑いと共に返す。
「すみません。支度で遅れてしまって、それを取り戻そうと思ったんです」


幸いにも西門は少し高く作っているため、街の中から彼女の姿は見えていないらしい。エリザはここまで連れて来た人達を地面の上に降ろし、彼らが十分に離れたのを確認してから市壁に向いて頷く。

彼女の視線を受けて まず西門にある鐘が鳴らされ、追従するように方々の鐘が鳴らされ始める。そうして祭典の始まりを告げる幾重もの鐘の音が街中に響き渡った。

エリザは目を開けたまま、最大限まで大きくなった自身を念想する。演出と安全のため、出来るだけゆっくりと大きくなるよう言われていた。

巨大化の開始とともに鐘は止み始め、最初は壁に阻まれて見えなかった街が北の港から徐々に見えてくる。
「あ、見えた見えた!」
聞こえてくる無邪気な声に、つい微笑がこぼれる。大きくなるにつれて歓声は彼女の足元に下り、代わって街の奥からはより具体的な会話が聞こえてくる。
「どれだけ大きくなるんだろう?」
「噂では八十丈らしいけど」
「八十ってーと、ここからあの広場くらいあるぜ」
しかしそれは距離の話。高さで八十丈というのはちょっと想像しづらいだろう。

街を見る限り彼女より背の高い建物は既に無く、市壁は膝より低い位置にある。壁の高さは五丈(十五メートル)と聞いているから、今の身長はその四~五倍といったところか。街や村に滞在する間は十から十五丈の大きさで居るため、既に彼等が普段見ているより大きくなっているはずだ。
「まだ大きくなるぞ」
「凄いなあ」
「どこまで大きくなるんだろう」
わずかに出始めた不安の声はエリザにとっても心配の種だが、まだ街からの声は好奇心と感嘆が主だ。
ドレスの裾が西門を傘下に収めても、中央広場と城が見渡せるようになっても、不安こそあれど それが恐怖にまで高じた声は無い。

ついには視界の変化も収まり、巨大化の終了を確認したエリザは今や足元にある城に向かって頷く。その合図に応じて城の鐘が一度だけ鳴らされ、残響が引くと今度は拍手が城のテラスから聞こえ始める。拍手は城から広場へ、広場から道を通じて広がっていく。

その様子をエリザは目を丸くして見下ろしていた。拍手で迎えるとは聞いていたが、ここまでの規模とは予想していなかったからだ。彼女は不意に、山を最初に越えた時のことを思い出す。バラムで受けた反応は恐怖と猜疑に満ち、結局何も出来ずに泣く泣く帰らざるを得なかった。それから一月半、今や拍手は街中に広まっており、殆どの住民が彼女を祝福している。

喜びが彼女の心に染み出し、急に胸が熱くなる。
「あれ? 泣いてる?」
「ほんとだ」
「おーい、どうしたんだー」
気づいた時には既に涙が頬を伝っていた。慌てて指で拭うものの、心配してくれる声が嬉しくてなかなか止まってくれない。なのでエリザは上を向いて何度か深呼吸し、落ち着いたところで街へ向き直る。そして満面の笑みを浮かべ、この大きさでは始めてとなる声を発する。
「すみません。皆さんの歓迎が余りに嬉しかったもので、つい」
エリザの震えた声が街中に響き渡ると、先より大きな拍手と歓声が街から沸き上がる。市壁を踝、城でさえ脛より低い位置に収める巨人に対しての不安も、彼女が流した涙とその理由を聞いて霧散していた。
だがそのおかげで、エリザは更に嬉し涙が込み上げて来るのをどうにかして抑えなければならなかった。
「ありがとうございます、皆さん」
心からの感謝を伝え、彼女は街に対して深々と一礼する 。それに伴って小さな丘ほどもあるドレスの裾が一斉に動き、ラベンダーの香を含んだ突風が西門一帯を走る。
「あっ! だ、大丈夫ですか?」
慌てて尋ねると、問題ない、大丈夫という声が直ぐに返る。良い香りと言ってくれる人まで居るのが何とも心憎く、また嬉しい。念のためざっと見て確認し、今度はゆっくり街に向き直ったエリザは 万感の思いを込めて言い切る。
「ありがとうございます。私はいま、本当に幸せです」
三度、拍手と歓声が上がった。


頃合いを見てエリザは歓声を手で軽く制する。それから自己紹介と挨拶を……
(挨拶?)
はたと疑問を抱き、そして迷う。

喋る内容を忘れたわけではない、しっかり記憶している。だが今ここで決まり切った自己紹介やら挨拶に戻るのは、余りに継ぎ接ぎではないか。
だが、ここで止まったままというのは更に良くない。妥協案として、決まりきった挨拶は短く収めることにした。
「念のため、簡単に自己紹介させて頂きますね」
そう切り出してエリザはドレスの裾を摘まみ、左足を引いて軽く屈む。一応お辞儀の積もりだが、街の人からどう見えているだろうか。そんなことを考えながら簡単な自己紹介を始める。
「私はエリザ=トーランド。この東にあるリーデアルド出身の、とても幸せな治癒術師です」
街の至る所で笑い声が上がる。この大きさでは人々との距離も遠く感じてしまうのではないか、また大勢の前で喋るから緊張するのではないかと思っていたが、どちらも杞憂のようだ。
「今日はこれから楽隊の方々に付いて西通を中央広場まで歩き、それから左に折れて港大通りを進みます。
 これらの通りからは靴しか見えませんし、何より危険ですので、見物の皆さんは少し離れた通りから……」
言い終わらないうちに、先ほど示した沿道にぞろぞろと人が集まって来ている。

伝えた内容とは真逆の行動に、エリザは思わず溜息をついてしまう。
「あのぅ」
腰に手を当てて身を乗り出し、彼女は低い声で話しかける。
「私が言った意味は、理解できますよね?」
その声は町中に響き渡り、人の流れは瞬時に停止する。

素直に止まってくれたのは良いが、少々脅かし過ぎたのだろうか。そう思ったエリザは軽く一呼吸の後、明るい声色で続ける。
「怪我をされた場合は、式の最中でも対応致します。ですが、ご覧の通りの大きさと装いですので、平時のような対応は出来ません」
返事はないが、頷く声が至る所から出ている。話を聞いてくれているなら大丈夫そうだ。
「ですので、くれぐれも慎重な行動をお願いします。特に、下から覗こうなんて絶対にしないでくださいね。色々な意味で困りますから」
「うん!」
「わかった」
「気をつけるよ」
そう返しつつ、人々は再び大通りへと歩みを進める。

余りにも堂々とした反目に、一瞬だけエリザは自分の言っていることが何か間違っているのではないかと疑ってしまった。慌てて記憶をたぐり 問題が無いことを手早く確認した彼女だったが、注意するにも切り出す台詞が見つからない。軽く眉間に皺を寄せたまま、人の流れをつい凝視してしまう。
「どれだけおっきいんだろう」
「そりゃあ大きいさ。八十丈だぜ」
「凄いなあ」
目に入ったのは、そんな言葉を交わす楽しそうな人々。つまり彼らが大通りに出ているのは、エリザの巨躯を間近で見たいからのようだ。

無邪気な理由だと解れば怒る気も失せてしまう。一つ溜息をついたエリザは少しだけ困ったような曖昧な笑みを浮かべつつ、何も言わないことにした。


式典の挨拶としてはもう十分だろう。エリザはドレスの裾を後ろに引き、足元の楽隊を見下ろして頷く。合図を受けた楽隊が高らかにファンファーレを鳴らすと、呼応するかのように周囲から歓声が上がる。本来なら盛大な式のはずだが、上から見ているエリザにとって百五十分の一という縮尺で繰り広げられるそれは滑稽にさえ見え、思わず微笑がこぼれてしまう。

ファンファーレが終わると別の部隊が現れ、手に持った縄で群衆を制して靴の置き場所を確保し始める。とはいえ既に通りは人で埋め尽くされており、部隊と群衆の間でちょっとした押し合いになっているようだ。
「そこまで広げなくても良いだろう」
「馬鹿、踏みつぶされるぞ!」
そんな問答まで耳に入り、原因となっているエリザとしては反応に困ってしまう。だが仲裁するよりも足を置いて安心させるのが先決だと思い直し、左右の足に神経を集中させる。

まずは重心を少しずつ左足へと移す。土の地面は彼女の体重を受けてより深く沈んでいき、沈下が止まったところで右足の踵を浮かせる。爪先だけが地面に付いた状態で一旦停止し、足元に声をかける。
「それでは、足を入れます」
若干声が高いのは緊張のせいか。一呼吸置いて右足をゆっくりと踝の高さまで持ち上げ、頭を左に傾げて右踵と市壁を注視しつつ足を前に運ぶ。とはいえ超えるべき市壁の高さは彼女にとって僅か三寸余り、普通に歩けば踵を当てる方が難しい位だ。

靴底が壁を越えると、街中の群集から一斉に感嘆の声があがる。彼等から見れば爪先だけで一区画の半分は踏み潰せそうな靴底が突然表れれたのだから、無理からぬ反応だろう。彼等の驚嘆と若干の恐怖を含んだ視線はきっと釘付けになっているはずだ。
「落ち着いてくださいね。まずは踵から下ろします」
エリザは努めて優しく諭し、踵を下にしてゆっくりと降ろしていく。踵の先は細いので死角も少なく、部隊が確保した足形領域の踵部分に安心して降ろすことが出来る。

石の潰れる音と共に踵が地に着くと、エリザはそこを支点として残りの部分をゆっくりと降ろしていく。どうやら爪先の方は部隊の確保した足型に収まりそうだが、靴底の後側が死角となっているため着地させることが出来ない。
「すみません、足の裏は大丈夫でしょうか?」
尋ねてみると、土踏まずの下に居る兵士が大きく両手を振って応える。大丈夫だと言っているように聞こえるが、今ひとつ確信を持てない。

逡巡していると、男は彼女の方に向かって走り始める。何をするのだろうと思いつつ見守るエリザの眼下で彼は彼女の踵まで動き、腕を突き出して触れる。
(大丈夫だ! そのままゆっくり降ろしてくれ)
聞きなれた声が突如流れ込んで来た。
(イーゼム。貴方だったんですね)
(ああ)
問えば返事が来る。当たり前のことだが、彼女にとっては新鮮であり また心落ち着く反応だった。事実、まともに会話をするのはこの大きさになって初めてである。
(あれ、伝わってないかな。下ろしても大丈夫だぞ)
(えっ……ああ、はい)
感慨に浸っている場合ではない。エリザは意識を足元に戻し、つま先を徐々に下ろしていく。

そして着地。ただの一歩とはいえ、この大きさで初めて街に入った一歩だ。エリザはほっと一息つき、脚に寄せていたドレスを放す。裾はふわりと前に戻り、淡い色の生地が足元の群衆を遮る。それに応じて彼等から小さな声が挙がったので、疑問に思った彼女は尋ねてみる。
(何かありました?)
(いや、特に問題はないよ)
答えがすぐ返るというのが嬉しい。ドレスの裾が空を覆い、次いで香を含んだ涼しい風が吹いたので歓声があがったのだという。
(それにしても、大きいよなあ)
改めて感慨深そうにイーゼムが言う。

だが彼は、ついさっきまで自分の大きさに震えていなかったか。ふと思い出したので、エリザは問うてみる。
(それより、今はもう大丈夫なんですか? 怖くはありませんか?)
(ん? ああ、平気だよ)
朗らかな声が即座に返る。
(触れればわかる。だから怖いことなんか無いさ)
(そうなんですか)
あたかもそれが当然と言わんばかりの口調なので、拍子抜けしてしまう。だが、一つだけ伝えなければならないことがあった。
(ありがとう、本当に貴方が無事で良かった)
(あ、ああ)
イーゼムの返事は、少しだけぎこちない調子だった。


エリザにとってもう一つ関心は、自分がどのように見えているかだ。そのことをイーゼムに尋ねてみると、少し間を置いて説明が始まった。

彼の傍らにあるヒールは高さが四階の窓より上にあり、太さは根元の辺りで一尋半。上に行くほど太くなるから威圧感が凄いのだという。石畳は五寸ほど沈められ、土が彼の頭の高さまで付いている。靴裏が作るアーチも堂々としたもので、普通の家なら一軒丸々入りそうな大きさらしい。
(うん。まあ、でっかい建物みたいだってのが正直な感想だよ)
そう言ったイーゼムは、すぐに次の句を継ぐ。
(それでいて普通に会話できるんだから、不思議だよな)
(そうですね)
エリザの返答に悲観の色は無く、むしろ嬉しそうだ。なので安心してイーゼムは実況を続ける。遙か上にあるドレスの裾は建物に囲まれた空の殆どを覆っており、この一帯に柔らかい影を作っている。中には幾重もの内布が展開し、その奥は陰になって見えない。
(前も言ったが、守りは堅いな)
(当たり前です!)
少し強めに言っても、イーゼムは悪戯っぽく謝るのみ。そして別の話を切り出す。
(あと、縄の中に入りたいって奴が多いんだ。入れても良いかい?)
(縄の中、ですか?)
(ああ。ええと、俺らが縄で確保した中な)
つまり部隊が確保した領域を開放しろと周囲からせっつかれているらしい。
(うーん。流石に危険だと思うんですが)
(だよなあ)
じゃあ断ろう、本人の言なら角も立つまい。そう伝えようとした矢先にエリザは続けて言う。
(でも、直接話を出来る機会でもありますし)
(そ、そうか? いやまあ、確かにそうだが)
意外な発言に、イーゼムは僅かながら狼狽してしまう。危険だからと言ってあっさり断ると思っていたのだが。
(だけど、大丈夫なのか?)
(大丈夫ですよぉ)
珍しく動揺したイーゼムの様子が可笑しくて、エリザの声につい笑みが混じる。たまには普段と逆のやりとりも悪くない。
(今から右足に体重を掛けます。それが終わったら入って貰って下さいね)
そう伝えてエリザは右足に体重を移していく。石の砕ける乾いた音が微かに聞こえるものの、自ら補強した石畳だけあって沈む感覚は殆ど無い。右足の前後左右へ念入りに重心を移してから、再び足元の相棒に語りかける。
(はい、終わりました)
しかし返事は無い。これもまたイーゼムの反応としては珍しいことだ。
(どうされました?)
再度問うてみると、多少の間を置いてようやく返事が来た。
(どうしたって、お前よう……)
その途切れ途切れな口調は、心話なのに息が上がっているかのように聞こえる。流石にただ事ではないと感じたエリザは、彼の説明を待つことにした。

右足に体重を掛けると言うや否やアーチ全体が悲鳴を上げるように軋み、聳える白柱が沈み込む。膨大な体重に圧迫される地面と靴の音、石の割れる音がそこかしこで不協和音のように鳴り響き、彼を含め周囲の全員が ただ見ていることしか出来なかったという。幸い割石が飛ぶことは無かったが、石畳にも関わらずかなり沈んでいるらしい。
(す、すみません)
エリザとしては謝るしかない。右足に体重を掛けるということを彼以外に伝えていなかったのは軽率だった。
(他の皆さんにも伝えますね)
そう言って、エリザはゆっくりとドレスの裾を後ろに引く。足元では彼女の靴から指の幅ほど隔ててぎっしりと人々が立っており、その色が素早く変化する。不意に日が差したため一斉に上を向いたのだろう。
「驚かせて申し訳ありません」
エリザは頭を下げながら、出来るだけ穏やかな声で語り掛ける。
「右足を安定させるために、先ほど体重を掛けました。ですので、今から右足を上げるまでの間は、来て頂いても大丈夫ですよ」
そう言って足元に微笑みかけると、部隊が確保していた領域は群集に押されるようにして狭まっていく。

ただ彼等は側まで寄ったところで止まり、そこで立ち尽くしているようだ。おそらく靴の大きさに圧倒され、次にどうして良いか判らないのだろう。エリザはそんな様子を愛おしく思う半面、自分の希望を伝える良い機会だと考えた。
「もし宜しければ、私の靴に触れてみて頂けませんか?」
そう言って、エリザは足元が反応する前に早口で台詞を継ぐ。
「そして、私に伝えたいことを念じてください。そうすれば皆さんとお話が出来るんです」

一度に言い過ぎたせいか、最初の反応までは二呼吸ほどの間があいた。心を澄まして聞くにはやや長い時間だ。
(え、えっと。こん、にちは)
やっと聞こえた心話の声は甲高く、明らかにそれと解るほど緊張していた。大体こういう時に先陣を切るのは子供なのだが、初々しさが何とも可愛いくてつい笑みが漏れてしまう。
(こんにちは)
心の声で返すと、靴の側に居た一人が頭を跳ね上げる。
(あらあら、そんなに驚かなくても)
優しく諭したつもりだが、その少年は興奮した様子で周囲になにやら捲し立てている。彼の宣伝が効を奏したのか、直ぐに色んな人の声が聞こえてくる。
(すげーっ! すごいよ!)
(これ、本当に聞こえてるのかな)
(靴だけでこれって、凄いなあ)
(聞こえますか?)
(ねーちゃん、でっかいなあ)
(高い高いしてー!)
(聞こえてたら手を振って!)
雪崩れのような声の重畳。それは群集までの八十丈という距離が一気に縮まった瞬間だった。エリザは突然増えた声への驚きと、自分が祭りの中にいる幸せを感じずにはいられない。
(ありがとう)
喜びと困惑の混ざった、どうにも微妙な笑みを浮かべて彼女は言った。
(でも、ごめんなさい。皆さん一人一人に答えるのは難しそうです)

ただ一つ例外があり、これは声に出して言う必要がある。
「それから、今日は『高い高い』は駄目ですよ」
エリザの宣言に対し、街の至る所から「えーっ!」という落胆の声が返る。その大きさには苦笑を禁じ得ない。
「みんなを高い高いしてたら、日が暮れてしまいますよ。だから、だーめっ」
立てた人差し指を左右に振る姿と諭す声は街中に届くが、子供たちも声量では負けていない。

エリザは特に嫌がる風でもなく、むしろ状況を楽しんでいた。子供たちは遊ぶことに関して譲らないから手を焼かされることも多いが、すぐに懐いてくれる彼等には何度も心を救われている。
「じゃあ今度、この大きさで遊んであげる。それで良いかな?」
(今度っていつ?)
提案しても、足元から直ぐにつっこまれる。こういうときの早さには感嘆するしかない。少し考えてからエリザは言う。
「じゃあ、明明後日と弥明後日。それでどう?」
そう言うと、不満の声は歓声と拍手に一転する。今度の条件には満足したようだ。


どうにか一歩を踏み出し安堵するエリザの足下前方では、次の足置き場が確保されつつある。門前広場の一歩目と違って道幅の余裕が少なく、通りから完全に人を追い出すのに手こずっているようだ。
(そういえばこの、踵に触れる方法な)
思い出したかのようにイーゼムが切り出す。その声は周りの民衆より幾らか大きく、またはっきりと聞こえる。
(グランゼル様と爺さんにも伝えて貰ったよ。だから踵を下ろしたら、一旦止まってくれ)
(はい)
足場確保の部隊は発着地と軸足で三班にわかれ、案内役としてイーゼム・グランゼル・ローンハイムの三人が付く。彼等も同様に案内してくれるなら心強い話だ。ただ、仮にも領主たる人物を案内役として使うことには、どうしても違和感が抜けないが……
(ははは。面白いことを気にするなぁ)
イーゼムは笑いながら答える。
(今回はお前が主役だから構わないってよ。どーせ城のテラスも足首より低いだろ、威厳も何も無いって)
(いや、うーん……)
エリザは反論できなかった。ヒールの先から踝までは五寸ほどあり、百五十倍すれば七丈半(二二・五メートル)になる。確かに彼の言う通りだった。


どうやら準備も終わったようで、グランゼルが旗を振って合図を送る。エリザは彼に頷いて返し、それから足元の群衆を見て軽く頭を下げる。
「ごめんなさい。これから動きますので、少し離れて下さいね」
彼女の言葉を聞いて、右足の群衆は少しずつ靴から離れ始める。指幅ほど開いたところでエリザは左足の踵を上げ、軽く振って土を落とす。今度は市壁を目視できないので、十分な高さまで引き上げてから前に出す。

壁の遙か上を越えた左足は右足よりも前、新しく確保された足場まで進み、踵部分のみ着地する。そのまま静止していると、グランゼルが踵まで寄って触れる。
(あー。これで聞こえるのかな?)
(あ、はい。聞こえました)
程なく心話の声が届いたので、エリザは頷いて返す。
(おお。なるほど、これは巧いな)
グランゼルのいつになく感嘆する様子が妙に可笑しくて、つい笑みがこぼれる。
(では、靴裏には誰も居ないから安心して下ろしてくれ)
(はい)
すぐにエリザは真顔へと直って頷き、ゆっくりと爪先を降ろし始める。

しかし彼女はすぐに足を止め、爪先からグランゼルに視線を転じる。
(あ、その前に一つ)
(うん?)
見上げたところで彼女は微笑み返し、会釈する。
(よろしく、お願いします)
不意の挨拶に、グランゼルの表情が緩む。巨躯に似合わぬ初々しい礼儀正しさが滑稽で、また安心できたからだ。
(こちらこそ宜しく。大きなお嬢さん)
含ませるようにゆっくり言うと、エリザは僅かに頬を赤らめて目を反らす。この呼び方にはまだ慣れていないようだ。

再び動き出した爪先は程なく着地し、足元の観衆から声が上がる。どうやら張られた縄に手を掛けて解放を心待ちにしているようだ。そんな彼等を微笑ましく思うものの、解放にはまだ早い。
「これから一度体重を掛けます。もう少しだけ待って下さいね」
エリザはそう言って はやる人々を制し、踵のグランゼルにも心話で注意を促す。
(グランゼル様も、少し離れていて下さい)

彼が踵から離れるのを待ってからエリザは左足に少しずつ体重を掛ける。その上で前よりも慎重かつ念入りに重心を動かし、地盤が概ね固まったところでグランゼルに視線を向ける。丁度グランゼルも見上げているところで、彼は素早くエリザの踵に触れる。
(いやあ、イーゼムからさっき聞いてはいたんだが……)
やや興奮した口調で彼は切り出す。
(本当に凄い重さなんだな。いやあ、驚いたぞ)
感嘆しきりといった口調で言いきられ、エリザはうなだれてしまった。彼女の全体重を間近で見ているのだから仕方ないとはいえ、それはあんまりだ。
(そんな、感心したように言わないで下さいよう)
(ん? ああ、確かにそうだな。すまない)
抗議を受け、慌てて謝るグランゼル。その反応に、軽口だと思っていたエリザもまた逡巡しまう。
(あ、い、いえ私こそ……申し訳ありません、差し出がましくて)
(ああ、うむ)
鷹揚な返事。一呼吸の間を置いて彼は言葉を継ぐ。
(もう入って貰っても良いんだな?)
(え、ええ。そうですね)
エリザが答えると、グランゼルは更に一言加える。
(普段通りのようで安心したよ。頑張れ)
暖かい励ましの言葉に、彼女は小さく頷いた。

エリザは足元の部隊に向き直り、
「終わりました。入って貰っても大丈夫ですよ」
と言って促す。その言葉を受けて部隊の縄が巻き取られると細い枝道から人が入りはじめ、やがて心話の声が幾重もの渦となって届く。先と同様、彼女の大きさに関する素直な驚きの声が主のようだ。
余りに多すぎるので全てには応えられないが、でも何らかの反応は返しておきたい。満面の笑みでエリザは手を振り、そして応える。
「驚いて貰えて、私も嬉しく思います」
ついでにもう一言。
「できれば、体重のことは心にしまっていてくださいね。私もちょっとだけ気にしているんですよ?」


次の足場が出来たところで足元の市民に退いて貰い、三歩目に取り掛かる。左足に体重を移してスカートを前に送り、開いた右下後方を注視する。踵の後ろと爪先の前は十分に間が空いているようだ。
「これから右足の踵を上げて、爪先立ちになります」
宣言した上で、爪先を軸にゆっくりと踵を上げ始める。

何らかの建造物を思わせる白い柱が観衆の目前で上昇すると壁の一部が左右に膨らみ、更にアーチ全体が微かな軋音を立てながら大きく傾く。軽い動作が起こす情景の変化に対してどよめきが漏れる。

しかしエリザに彼等を構う余裕はなく、悲鳴が上がっているわけではないから大丈夫と判断するしかない。右足前方の間隔が足りないのを見たエリザは僅かに爪先を浮かせ、一寸ばかり後ろに下ろす。そして爪先立ちになるまで踵を持ち上げて止まる。直立した靴の高さは十丈ほど、門の見張り塔に匹敵する高さだ。横になったヒールも家一軒分の幅は優に越えている。

エリザはドレスを元に戻して正面に向き直る。何日も歩行の練習を積んだとはいえ、両足を街に入れた次の一歩はちょっとした難関だった。深呼吸しつつ彼女は練習のことを思い出す。最初はよろけて家に足をつくことが多く、その度に概ね四~五軒の粘土模型が犠牲になった。足を捻って転んだこともあり、その時は数区画の百軒余りが彼女の体に押しつぶされていた。もし今、そのような過ちを犯してしまったら……

彼女の思考を中断したのは、ほぼ同時に届いた二つの心話の声だった。
(どうした?)
(大丈夫か?)
不安定に震えたまま動かないのを不思議に思ったらしい。練習の失敗を思い出して不安になっている旨を率直に伝えると、まずグランゼルが反応する。
(今こうやって立っているのも練習の成果だろう? 大丈夫だ)
確かに、最初は脚を前後に配するだけで明らかにふらついていたものだ。
(まあ、どうしても駄目だったら……)
続いてイーゼムが応える。
(この辺の家は皆出払ってるから、家を踏み歩けばいいんだ。早いし安全だぜ?)
(いや、それは)
あんまりだ。だが、いざというときにも何とかなると割り切れば心が軽くなるのも確かである。

意を決したエリザは改めて二人に離れるよう伝え、そっと右足を上げる。いざ上げてみると危惧したふらつきは特に無く、杞憂どころか拍子抜けな位だ。右足を上げたまま前に送り、用意された領域にまず踵を下ろす。そしてローンハイムからの心話を待ってから爪先をそっと下ろす。

「まいったな、これは」
その様子をほぼ真下から見ていたイーゼムは思わず呟く。彼は離宮で見た光景を思い出していた。緊張した面持ちで練習の成果を披露するエリザ。足を前後に配するため腰を左右に捻る歩き方が、優雅で少し艶めかしかったのを覚えている。いま頭上ではドレスの裾や内布が彼の想像以上に大きく翻り、更には吹き下ろす風が一帯に紫薫の香を振りまいている。同じ動きでも大きさの差でこうまで違うのかと思うと、何とも形容しがたい思いだ。

もう一つ参ったことといえば、エリザが残した足跡だ。爪先の縁で半尺強、踵は一尺半もの段差になっている。特に踵の跡は通りの真ん中にあるため、まるで落とし穴だ。
「とりあえず」
イーゼムは言葉を発しながら部隊の他の兵士に向き直る。
「踵の穴だけでいい。土嚢で埋めよう」
今日は忙しい一日になりそうだ。


三歩目の助手は魔術の師匠でもあるローンハイム。予想通りというか、彼女の大きさと重さを驚き楽しむ様子がありありと伝わってくる。だがそれだけではなく、老師からは魔術に関する幾つかの助言を貰うことが出来た。

緊張で汗が滲みそうなら、風を呼ぶ方法がある。といっても普通に風を呼ぶと足元になだれ込んでしまうので、腰より上の高さで自分の周囲を回すのが良い。
足跡の凹みについては、足を付いてから体重を掛ける前に地面の支える力を増やすことで対応出来る。とはいえふらついたまま術を行使するのは危険だから、これは余裕次第だ。

一通りの助言の後、ローンハイムは実に楽しそうな声で切り出す。
(実は、まだ大きくなれるんじゃろ?)
(なれません!)
即答だ。そんなことを考えて、本当に大きくなっては困る。
(大体、今でも道幅ぎりぎりなんですよ。私に何をさせたいんですか?)
エリザは幾らか強い口調で問うが、師匠に怯える様子は全くない。
(いやのう。文字通り天を衝くお前の姿をな、死ぬ前に一度見てみたいのだよ)
わざとらしい哀れみ声に加えて、『死ぬ前に一度』の殺し文句。この類の文言を使う人間に限ってしぶといものだ。
(殺しても死なないような人が何言ってるんですか)
(そんなことを言わずに……ほれ、広場から先は道幅も広いじゃろ?)
なおも食い下がる師匠に対し、エリザはきっぱりと言い切る。
(駄目です。もっと長生きして貰いますからね)
そして、間髪入れずに彼女は付け加えた。
(まだまだ教えて欲しいことは山ほどあるんです)


[前に戻る] [次を読む] [トップに戻る]